勉強会主催の みなみ です。
今回の勉強会には、初めての方お1人を含む、7名の方にご参加いただきました。
今回もワークやディスカッションでみなさん積極的に話していただいて盛り上がり、私自身もより学びを深めることができ、貴重な機会となりました。
そもそもアドラー心理学に関心があった、「心理学×仏教」の組み合わせが面白うそうだと思ったなど、参加された方の動機はいろいろですが、今回のワークショップが仏教をより深く学ばれるきっかけとなれば嬉しく思います。
※記事の内容を動画でもご紹介しています
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アドラー心理学から知る、承認欲求との適切な向き合い方
今回のテーマは、
ブッダとアドラー心理学から学ぶ「悩みを解消する“承認欲求”との向き合い方 」
でした。
アドラー心理学がブームとなったことで、”承認欲求”という言葉もよく耳にするようになりました。
「人からほめられたい、認められたい」という欲求のことですね。
「私はこんなにがんばっているのに、誰からも認められない…」と、承認欲求が満たされなくと苦しんでいる、悩まれている方も多いと思います。
そんな承認欲求といかに向き合っていけばいいのか。
アドラー心理学にはその適切な方法が教えられています。
前回は、人間の根源的な欲求は「所属感」であること、また、その理由をお話ししました。
前回の記事はこちら
人間は生まれたときは自分ひとりで生きていけません。世話をしてもらわないと生けていけないのですね。
ゆえに「人と強くつながっておかないと大変だ」という思いを持ち、「生存の本能」より「所属の本能」が強くなった、と説明されています。
この所属感を得るための方法として、「承認欲求を満たす」方法があります。人からほめられたり、認められたりすれば「私はここにいてもいいんだ」と思えるわけですね。
しかし承認欲求を満たすことには問題があるのです。
承認欲求の“終わりがない”という問題点
承認欲求を得ることの問題点について、ベストセラー『幸せになる勇気』にこう書かれています。
承認には、終わりがないのです。
他者からほめられ、承認されること。これによって、つかの間の「価値」を実感することはあるでしょう。
しかし、そこで得られる喜びなど、しょせん外部から与えられたものにすぎません。
他者にねじを巻いてもらわなければ動けない、ぜんまい仕掛けの人形と変わらないのです。
人からほめられれば、一時的には自分の価値を感じられるようになります。
しかし残念ながらその気持ちは長続きしませんね。また認めてほしい、ほめられたいという気持ちが出てきます。
そうなると、「ほめられればやる。でもほめられなければやらない」という、まさに他者にネジを巻いてもらわないと動けない、ぜんまい仕掛け人形のような生き方になってしまうのですね。
さらに「もっと認めてほしい、ほめられたい」と、承認欲求がますます大きくなってしまいます。そしてそれが満たされないと不安になったり不満になったりして苦しんでしまうのです。
ドイツの哲学者であるショーペンハウアーは
富は海水に似ている。飲めば飲むほど、のどが渇くのだ。
名声についても同じことが言える。
と語っています。
のどが乾いているからといって海水を飲めばどうなるでしょうか?
ほんの一瞬はのどの渇きがいやされたように思いますが、それも束の間で、その後に猛烈な渇きに襲われてしまいます。また海水を飲むとさらなる渇きで苦しんでしまう…、という悪循環に陥ってしまいますね。
物欲や承認欲求もまた、まさにこれと同じようなスパイラルにはまってしまいます。
物欲なら、ほしいものが手に入れば満足できたように思いますが、その後にもっと多くの、もっと貴重な物がほしいという思いが膨らんでいきます。
承認欲求も「もっとほめられない、大切にされたい」となり、その思いはどんどん広がっていきます。
そしてそれが満たされ切れずに苦しむのですね。
欲が無限に広がり、満たされないことの苦しみは仏教で「渇愛」とも教えられています。
また、承認欲求にはもう1つ、問題点があります。
それについては次回、詳しくお話しします。
まとめ
- 人間は生まれながらにして生存の本能より「所属の本能」のほうが強くなり、ゆえに根源的な欲求が「所属感」となった、といわれています
- 所属感を得る方法として「承認欲求を満たす」ことには問題があります。承認には終わりがなく、常に外部から与えられないと自分の価値を感じられず、動くことができなくなることです
- 承認欲求は満たされるほどその欲求も大きくなっていき、人からほめられても、それでも足りないと感じ、不安や不満を感じやすくなります。欲求が満たされ切れずに苦しむのです
引用した書籍
続きの記事はこちら
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