仏教で説かれる「煩悩」、その煩悩のなかでも特に恐ろしい心といわれる「三毒」について続けて紹介しています。
三毒とは、
- 貪欲(限りのない欲の心)
- 瞋恚(欲が邪魔されると出てくる怒りの心)
- 愚痴(成功している相手を嫉妬したり、欲を邪魔した相手を憎んだり恨んだりする心)
の3つの心をいいます。
これらの心がなくなれば、人間関係で苦しむこともなくなり、どんなにか楽に生きられることかと思います。
欲が満たされずにイライラしたり相手を責めたり、欲求不満で悶々としたり、相手の成功を認めることなく嫉妬したり、そんな自分の醜い心に悩まされたりすることがなくなれば、とても幸せに生きていけそうですね。
ところが人間は煩悩の塊であり、煩悩は無くすことができない、ということを前回、お話ししました。
前回の記事はこちら
煩悩は無くすことができないとなれば、それを認めた上で、その煩悩・三毒と適切に向き合い、その対処法を知って実践することが大切になってきます。
今回は、その三毒のなかでも「愚痴(嫉妬心 や 恨みの心)」への対処法を紹介していきます。
記事の内容を動画でもご紹介しています
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愚痴への対処法「すべて“因果応報”と受け止める」
三毒への対処法、特に「愚痴」の心への対処法として有効なのが
「すべて“因果応報”と受け止める」
ことです。
因果応報とは、仏教の根幹、仏教のベースであるともいわれます。
意味は、「原因に応じた結果が必ず報いる」ということです。結果には必ず原因があり、その原因に応じた結果が起こる、ということですね。
因果応報といえば、現在は悪い結果に対してのみ使われていますが、悪い結果だけでなく善い結果も因果応報、つまり原因に応じて生じた結果なのです。
だから善い結果に恵まれている人はそれだけ善い原因をつくっていた(善い行いをやっていた)ということですし、善い結果に恵まれていないとすれば、それは善い原因をつくっていなかったから、といえるのですね
悪い結果で苦しんでいるのは、それだけ悪い原因をつくってしまっていた、ということになります。
この因果応報がわからず(あるいは受け入れられず)、自分のことを棚に上げ、相手を嫉妬をしたり責めたりしているのが「愚痴」の心なのですね。
愚痴の心を「愚かで痴(ばか)」と書くのは、因果応報の真理がわかっていないからなのです。
もちろん、私に悪い結果をもたらすのは因だけはありません。縁が悪い、ということもあるので、悪縁は罰したり遠ざけたりする必要もあります、
しかし因には目を向けずに縁だけを責めていても、事態は決してよくなりませんね。
縁とともに因にも注目し、自分の行いを善いものにしていきたいです。
すべてが因果応報とわかると、愚痴の心を抑えることができます。愚痴の悩みを最小限にとどめることができるのです。
ホリエモンが語る「嫉妬心との正しい向き合い方」
ホリエモンこと、実業家の堀江貴文さんはこう語っています。
他人の足を引っぱり、引きずり下ろしたところで、気が晴れるのは一瞬のことだ。
むしろ、時間が経つほど空しさや苦々しさに襲われるに違いない。
なぜなら、あなたの居場所はまったく変わらず、ゼロ地点のままなのだから。
他者を羨ましいと思う気持ちがあるのなら、その人の足を引っぱるのではなく、自分で一歩を踏み出そう。
(『ゼロ』堀江貴文著 より引用)
他者の足を引っ張ったところで、自分の現状はまったく変わらず、ゼロ地点のままです。それではやがて、虚しくなってしまいます。
自分で成長の一歩を踏み出してこそ、自分のことに集中でき、愚痴や空しさを解消できるのですね。
これが三毒のなかの、特に「愚痴」への対処法でした。
次回は、先の話の中でも少し出てきた「縁」ということに注目し、三毒への対処法ご紹介していきたいと思います。
まとめ
- 人間を苦しめる煩悩のなかでも特に恐ろしい3つが「三毒」であり、その三毒の1つが「愚痴(恨みや嫉妬)」の心です
- 愚痴へ対処するには、すべて「因果応報(すべての結果には、それに応じた原因がある)」と受け止めることです。因果応報がわからないから、自分のことを棚に上げて、相手を責めたり、相手に嫉妬をしてしまうのです
- 他者に嫉妬し、足を引っ張っても、自らの状況はまったく変わりません。自分で一歩を踏み出し、自分の行いを善いものにしていくことで、現状は着実によくなっていきます
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